工芸とつながる。工芸でつながる。

CRAFT LETTER | クラフトレター

群馬県が誇る養蚕製糸業を基盤に、東の織都としての栄華を誇った桐生。数百年に渡って織りなされてきた”桐生織”の次代に引き継ぐべき魅力とは

MAY. 27

KIRYU,GUNMA

前略、江戸時代に将軍がお召しになったことに由来する「御召」の技法を駆使した、現代の桐生織の世界に触れたいアナタへ。

森秀織物株式会社は、1877年(明治10年)に初代森島秀が半農工で生糸や織物の生産に着手したことから始まった。当時は、手織足踏みの機であったが、1930年(昭和8年)に御召の機械製織に成功。一時期は時代を風靡した御召織であったが、1960年代には日本の全ての産地から姿を消した。森秀織物では、2001年以降その復活を試み、戦前から自社で保持していた八丁撚機の再稼働によって、「桐生御召織」の復元に成功。現在では御召の織り、染め、撚糸、湯のしまでの全工程を自社で一貫して制作している。

織物参考館「柴(ゆかり)」。のこぎり工場跡を利用し、桐生織物の1300年の歴史を物語る貴重な資料1200点余りを展示している。手前の織機は、ジャカード機で、紋紙を使って経糸の上げ下げを制御する。現在の織機では、コンピュータによる制御に置き換わっている。天井に渡っている黒いフーリーを、昔は水力、今は電力で回転させることで、織機に動力を与えている。
織物参考館「柴(ゆかり)」。のこぎり工場跡を利用し、桐生織物の1300年の歴史を物語る貴重な資料1200点余りを展示している。手前の織機は、ジャカード機で、紋紙を使って経糸の上げ下げを制御する。現在の織機では、コンピュータによる制御に置き換わっている。天井に渡っている黒いフーリーを、昔は水力、今は電力で回転させることで、織機に動力を与えている。

消えつつある古い染織技術を語り継ぐ織物参考館「柴」(ゆかり)


「西の西陣、東の桐生」と並び称される絹織物の一大産地、桐生。JR桐生駅からレトロな雰囲気が溢れる商店街を通り越して程なくすると、のこぎり屋根の工場が現れる。ここが、森秀織物株式会社が運営している織物参考館「柴」。建屋の奥は、現在も織機工場として稼働している。社長の長谷川博光さんに案内されて中に入ると、床張りの広大な工場内は、わらかで優しい光に包まれていた。


年々減少しているとはいえ、桐生には多数ののこぎり屋根工場が存在し、産業遺産として評価も高い。


「のこぎり屋根は、ギザギザとした形になっていますけど、この形の大きな理由は、光と音です。光は、天窓から明るい光を取り入れているのですが、強い光は入らないように全て真北を向いています。工場内には、照明がないので陽が落ちたら操業しません。音は、三角形に音と音が乱反射して、人間の耳を守っているのです。天井に板を張ってみたら、働いていた従業員さんがみんな難聴になってしまったという話があるくらい、この形でないと、音が工場の中で籠もってしまって、とてもうるさいのです。窓のところには、小さな鳥が出入りできるくらいの隙間があって、通気が出来たり、音を逃がしたりしています。このように、のこぎり屋根は、とても理にかなった作りなのですが、唯一の欠点が、空調がほとんどきかないことです。夏場は最悪な状態で、上にある温度計は50〜60度を指すこともあるのです(笑)」(長谷川氏)


ここまで大きく、そして文化財としての価値が高い工場をきちんと保存してきたことには頭が下がる思いだ。


「桐生の機屋は、時代を追って儲かるごとに工場を建て増ししてきました。壁を壊して継ぎ足していくのです。うちの工場は、一棟ごと、つまり一つの屋根ごとにだいたい20年くらい年代がずれていて、大工さんの作りも違います。参考館入り口すぐの棟が一番新しくて昭和40年代、ひとつ奥が20年代、さらに奥は戦前、もっと奥の染め場がある棟は、大正、明治時代の建屋です。おわかりのように昭和40年代以降は、新しい工場は建てていません。石の上に柱をのせる伝統的な建築工法なので、地震には強くて、東日本大震災の時でも8センチくらいずれただけでびくともしませんでした。よく木造の工場が百年以上も建っているなぁと思います」(長谷川氏)

のこぎり屋根工場(織物参考館)外観。手前の黒い屋根の棟が大正期の建屋で、右に行くほど新しくなっていく。
のこぎり屋根工場(織物参考館)外観。手前の黒い屋根の棟が大正期の建屋で、右に行くほど新しくなっていく。
長谷川博紀(Hiroki Hasegawa)氏 森秀織物代表取締役
1971年生三重県まれ。法政大学文学部史学科卒業後、東京で営業職をしていたが、1998年より家族で桐生に移り住み義父の会社である森秀織物に入社。工場の現場で10年以上、レピア織機や力織機を動かし、ものづくりに没頭した。その後、営業に転じ、40歳で社長に就任する。2011年に経済産業大臣指定伝統的工芸品・桐生織・製織部門の伝統工芸士に認定される。2022年より桐生織物協同組合の理事に就任。写真は、織物参考館に展示されている八丁撚機を手回しする様子。
長谷川博紀(Hiroki Hasegawa)氏 森秀織物代表取締役 / 1971年生三重県まれ。法政大学文学部史学科卒業後、東京で営業職をしていたが、1998年より家族で桐生に移り住み義父の会社である森秀織物に入社。工場の現場で10年以上、レピア織機や力織機を動かし、ものづくりに没頭した。その後、営業に転じ、40歳で社長に就任する。2011年に経済産業大臣指定伝統的工芸品・桐生織・製織部門の伝統工芸士に認定される。2022年より桐生織物協同組合の理事に就任。写真は、織物参考館に展示されている八丁撚機を手回しする様子。

和装文化の縮小から生き残りをかけた森秀織物

織物参考館に展示されている織機は、その全てが実際に動かすことができるのがコンセプトだという。

「昔は、御召という着物地を織って年間何万反と出荷していたのですが、現在では着物の需要が少なくなっているので、織物カレンダーを織って世界中に輸出したりとか、ファブリックの小物を作ったりしています。また、織物参考館の入館者を対象として、手織り体験や染め体験等をおこなって、文化財の建物を有効活用しています。日本が戦後復興していく過程で、だんだん着物が着られなくなって、桐生でものこぎり屋根が行き詰まってきた昭和40年代頃には廃業する機屋も多かったのです。うちもその頃には、洋装文化を取り入れて、インテリアファブリックなどの織物も織り始めたと聞いています。そんな憂き目にあったのが先代の社長で、その頃には、第二工場も稼働していないくらいの生産率に落ち込んでいて、それまでは従業員が200人くらいいたのですが、ほとんど辞めたそうです。先代の社長の時代に、先々代の職人さんはみんないなくなったそうです。織物参考館は昭和56年にオープンしました。現在は、第一工場には、力織機が6台動いています。手織りの織機は、参考館にある機を含めて、10台くらいあるので、それで生産しています」(長谷川氏)

桐生の地場産業を守り抜くために、長谷川さんは日夜奮闘している。

「着物地でなくても、小物でもやっていかないと、ものづくりというのは、続けていかないとノウハウが、職人も含めてなくなってしまいます。手が空いてしまうと技術も人材も流出してしまうので、何かは作り続けなくてはいけない。職人はもっと着物を織りたいという気持ちもあるのでしょうが、注文がなければ織れないわけですからやっていくしかない。

それと、糸を消費しなくてはいけないという使命が我々にはあるのです。絹糸自体が野菜と一緒で生ものですから、毎年群馬県で生産されています。これは、誰かが買い上げないと群馬の養蚕農家が駄目になってしまう。せっかく、群馬県でやっている貴重な国産シルクの産業を途絶えさせる訳にはいかない。逆にそれで考えたのが、群馬の絹糸を使った御召のストール、小物類です。江戸時代から、御召の余った生地を職人が自分の身体を綺麗にするために使っていたということにヒントを得て、御召の垢すりも手織りで作っています。水に入れると糊が落ちて縮むので、その縮みのボコボコを利用したシルクのボディタオルで、人気の商品です。作ったからには売らないといけない、そんな思いで操業しているのです」

昔は藩内で加工していた粘土を今は業者から購入しているとはいえ、そこにも窯元それぞれの工夫があるという。

歌舞伎の衣装用に織った御召。江戸時代の柄を復元したもの。
歌舞伎の衣装用に織った御召。江戸時代の柄を復元したもの。
御召で作られた小物。
御召で作られた小物。

八丁撚糸機を復活してその糸が使えれば、桐生の職人の技

術を残せる

御召とは、あらかじめ精錬、染色した糸を織る織物で、八丁強撚糸を緯糸に使うため、生地には特長的なしぼ(凹凸感)が出る。その高級な質感から、江戸時代には、11代将軍徳川家斉(いえなり)がこれを好んで着用し、高貴な方の御召物を略して「御召」という名がついたといわれている。

「御召は、桐生から始まって江戸幕府に献上していた由緒ある着物地です。昔は、御召3反とか、嫁入り道具に使われるくらいポピュラーな織物だったのですが、今は御召を織っている工房が一軒も無くなってしまいました。うちも一旦は、織るのを止めてしまっていたのですが、歌舞伎の松竹さんや、人形浄瑠璃の文楽さんから「どこにもないので復活して欲しい」と依頼が来たのです。文楽の人間国宝・吉田簑助さんが現役の頃は、世田谷の骨董市とかを回って、50年、百年前の御召の古着を見つけて人形の仕立てに使っていたそうで、それがもう限界だと話がきたのです。そこで群馬県とも相談して、群馬産の絹糸を使って5年くらい前に織り始めたのです。というのは、御召は、八丁撚糸という糸に強い撚りをかける機械がないとそもそも出来ないのですが、うちは参考館をやっているので、捨てずに何台も残っていました。それで、昔の技法を試行錯誤の上、御召を復活させることができたのです」(長谷川氏)

御召の魅力について語る時、柔和な長谷川さんの表情がさらに緩んで早口になった。

「帯も着物もデザインとしては、縦縞とか格子とかあるのですが、どちらかというとテクニックとか生地の風合いが桐生織の魅力です。柄そのものはあまり固定化されず、自由な発想で織られています。御召は、絹なのでツルツルはしているけど、やっぱりしぼが特徴です。生地自体もまっすぐな縞ではなくて、ちょっとよろける感じの縞で、緯糸がぐっと縮んでいるので、ドレープが出たときに玉虫色の光沢感が出てくるのです。そういうのは、普通の染めの着物では出ない表情で、それが江戸文化の着物なのです」(長谷川氏)

現役に戻った八丁撚糸機。八丁撚糸機は1783年、岩瀬吉兵衛により水力を動力源にした機械として考案されたという。1メートルに約3千回もの強い撚りを緯糸にかける。
現役に戻った八丁撚糸機。八丁撚糸機は1783年、岩瀬吉兵衛により水力を動力源にした機械として考案されたという。1メートルに約3千回もの強い撚りを緯糸にかける。
御召ストールを手織機で織る。強撚糸をのせた杼が、カーン、カーンという音を立てて緯糸の間を行き交う。。
御召ストールを手織機で織る。強撚糸をのせた杼が、カーン、カーンという音を立てて緯糸の間を行き交う。

東京で会社員をしていた長谷川さんが職人に転じ、複雑な織機を操る技術を習得するにはかなりの苦労があったのではないかと聞いてみた。


「ものづくり自体は大好きなので、苦労したということは思わないのですが、マニュアルとか、教本とかが全く無い世界なので、そこは苦労しました。自分の先輩とか上司にあたる職人さんとかに、何を訊いても、うまくは教えてくれないわけです。それは別に意地悪しているわけではなくて、その方自身も教えられてこなかったし、教えるという文化自体がなかったわけですから、伝える言葉がないわけです。ですから、なんとなく自分で考えてやるしかない。ちょっとアドバイスもらう程度で、自分で見て、真似をするくらいしか方法がないのです。
織りの技術というものは、ずっと企業秘密にされていて、職人さんがその技術をわざと残さないで来たということがあるので、連綿と引き継がれてきた技術というのは、その工房が無くなった瞬間にロストテクノロジーになってしまう。ですから極端なことを言うと、森秀織物とか、○○織物という会社がなくなった時点で、桐生に何百年も続いてきた機織りのノウハウそのものが消滅するわけです。その恐ろしさは、日々感じています。自分が生きているうちは織り続けますが、自分より若い世代の人間がやりたいと言わなければなくなっちゃうだろうなとは思っています」(長谷川氏)

整経機。本来整成は、外注さんに頼む仕事であるが、森秀織物は自社内でやっている。緯糸(経糸)を整えるというので整経と書くのだが、緯糸自体を設計する工程。織りよりもこのような準備工程の方が時間がかる。縞にしたりとか無地にしたりとか、計算しながら、何色を100本入れて、何色を20本入れてと巻いていく。
整経機。本来整成は、外注さんに頼む仕事であるが、森秀織物は自社内でやっている。緯糸(経糸)を整えるというので整経と書くのだが、緯糸自体を設計する工程。織りよりもこのような準備工程の方が時間がかる。縞にしたりとか無地にしたりとか、計算しながら、何色を100本入れて、何色を20本入れてと巻いていく。
2台の力織機を同時に操りながら作業をする織職人。
2台の力織機を同時に操りながら作業をする織職人。
2織物カレンダーを織る力織機。
織物カレンダーを織る力織機。
縦糸の繋ぎの作業。これは、織物カレンダー用の800メートル位の緯糸で、それが織り終わると次の緯糸に繋いで、また次のロットの反物を織る。全部繋ぎ終わるのに1ヵ月くらいかかる。繋ぎ目のところは織物にならないので、引っ張って切る。ちなみに着物の場合は50メートルの緯糸が必要で、9ヶ月かけて3反程できる。
縦糸の繋ぎの作業。これは、織物カレンダー用の800メートル位の緯糸で、それが織り終わると次の緯糸に繋いで、また次のロットの反物を織る。全部繋ぎ終わるのに1ヵ月くらいかかる。繋ぎ目のところは織物にならないので、引っ張って切る。ちなみに着物の場合は50メートルの緯糸が必要で、9ヶ月かけて3反程できる。

生産が縮小する程、作業は多様化して、手間が増える。それも職人の喜びにかえる長谷川さん。

「和装の地場産業の世界は、およそ20社、30人の職人さんがいると、だいたい一つの着物になります。それが本来のスタンダードなのですが、需要そのものが縮小して、分業制が成り立たなくなったので、うちも残念ながらほとんどの工程を自社の中で行っています。もちろん養蚕は農家、製糸は製糸工場がやってくれていますが、そこから先の撚糸工程から始まって、染色、整経、整理、緯糸を撚ったり、織りのデータを作ったりなどは全部社内でやっています。それ自体は、ものづくりをする者としてはうれしいことなのですが、経営者からするとすごく効率が悪くて、ひとつのものを作るのに膨大な手間と時間がかかっているのです。ただ、思い通りのすごく品質いいものができるのは確かなのですが。(笑)」(長谷川氏)

「今の時代、お仕立て屋さんはいても部材の在庫がないんですよ。着物をつくりたいけど、どうしていいか分からないというお客さんが割と多いのですが、帰って下さいとは言えないので、お時間はいただきますけど一からご注文の着物つくりますよ、というスタイルで対応しています。そんな仕事を受けると、いろんな手配で単純に自分が大変なことになるのですが、うちの御召の着物をきちんと着ていただくためには、直接お客さんの要望を聞きながら最初から最後までアフターケアした方が、その文化を楽しく味わっていただけます。御召しの仕立てをよく知っている先生と、御召の生地をよく知っている自分が、いろんな部材を掛け合わせて作った方が、やっぱりいいものができるのです。御召って本当にいいねってみなさん言ってくれるので、そういう意味でも面倒見るしかないなって思っています」(長谷川氏)

まずは、以下フォームよりお気軽にご相談・お問合せください。

筆者:塩川浩司

Editor's Note

編集後記

群馬県桐生市は、人口約10万4300人(令和5年2月時点)の群馬県南東部に位置する都市です。古くから絹織物の機業都市として、京都・西陣の西陣織に並ぶと称されていますが、その桐生織の起こりは今から1300年ほど前の奈良時代まで遡ると言われています。有史上の初出は「続日本紀」にて、和銅6年(713年)に上野の税(調)は絁(あしぎぬ)と定めたことにあります。
絹の原料である繭を生産する「養蚕」は、日本では弥生時代から始まったとされていますが、世界遺産に指定される富岡製糸場が明治5年(1872)に設立されると、日本初の大規模な機械製糸工場として繭から作る「生糸」の大量生産を実現、日本の基幹産業を担う都市で栄えます。
奈良時代から続く”絹織物”という日本人の”衣”を支えてきた絹織物の先進地域である桐生の街は、今でも変わらぬ足尾山地の急峻な山々の風景と、数は減っていますがどこからか聞こえてくる機織り機の音色を纏う三角屋根の風景に出会うことができます。
(CRAFT LETTER編集長:岡本幸樹)

ぜひ、群馬県桐生市へ遊びに来てください!

ぜひ、群馬県桐生市へ遊びに来てください!

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