UCHIKO, EHIME
愛媛県内子町
柑橘類の名産地・愛媛県内子町。
愛媛県には、日本の平安時代(794年~1185年)から製造されてきたと言われる“大洲和紙”に、西洋の13世紀頃(1201年~1300年)から受け継がれている“ギルディング”という技法を掛け合わせて“ギルディング和紙”という新たな和紙ブランドを創り上げようとしている新進気鋭な「五十崎社中」という和紙工房が存在する。
“大洲和紙”は、愛媛県の藩内産業として寛永の時代に隆盛を極め、明治時代には430もの業者が存在しました。しかしながら、昭和20年頃に機械の発達とともに手漉きにこだわった“大洲和紙”の作り手は100社を下回り、現在町内では僅か3社となってしまった。「五十崎社中」は、そんな数少ない和紙工房のひとつであり、現在も楮(こうぞ)・三椏(みつまた)・雁皮(がんぴ)・麻・わら・トロロアオイという自然の原料を用いて、幾人もの人によって伝えられた手漉きの技術を駆使しながら“大洲和紙”を作り続けている。
そんな、“大洲和紙”は、手漉きの過程で使われる簀(すだれ)という道具で、何度も自然原料の繊維を絡ませることにより、機械漉きの紙よりも強度な紙でかつ、表面は優しく柔らかな素材感を残しているのが特徴となっている。
一方、ギルディング技法は、西洋の13世紀頃から伝わる金属箔装飾で、古くは額縁の装飾技術として発展し、紙や木材などの上にデザインを施す手法として今日まで伝えられてきました。ギルディング技法で用いられる金属箔は、箔を酸化させることにより独創的な美しい色合いを表現できることが特徴とされている。「五十崎社中」には、和紙に興味があり内子町に技術指導で滞在していた壁紙デザイナーのガボー・ウルヴィツキさんにより伝えられた。
これまで交わることがなかった東洋の和紙づくりの技術と西洋の金属箔装飾技術は、2008年に愛媛県内子町で創業した「五十崎社中」の創業者であり和紙職人の齋藤宏之さんと、和紙に興味があり愛媛県に招聘した壁紙デザイナーのガボー・ウルヴィツキさんが出会うことにより融合し、“ギルディング和紙”という新たなジャンルの和紙が生まれた。
「最初は、本当にやる気があるのかと思われていた」と語るのは、元システムエンジニアで“ギルディング和紙”という新たなジャンルを確立させた齋藤氏。
齋藤氏は、大学卒業後、通信系IT企業へ就職し、システムエンジニアとして10年、企画・営業として3年間従事していた。「IT系のスキルがあったので、IT業界での起業は考えていた」(齋藤氏)というが、当時はまったく伝統工芸に関わることについては想像もしていなかったそうだ。
そんなある日、齋藤氏が職人として歩むきっかけが訪れる。
齋藤氏の義父は、五十崎地区で300年続く酒造業を代々営んでおり、衰退している“大洲和紙”の現状を変えていきたいという思いから、“ふるさと名物応援事業補助金(JAPANブランド育成支援事業)”に応募し採択された。その採択結果をきっかけに、齋藤氏の“大洲和紙”産地との繋がりが生まれ、様々なご縁も重なり、五十崎地区の和紙産業を復活させる旗手として、和紙職人の人生が突然幕を開けた。
新たな和紙職人としての人生は、当初順風満帆とはいかなかったようだ。
「和紙という産業が壊滅的な状態にあるという話を聞き、和紙産地を盛り上げる道を志ました。ですが、当然和紙づくりの知識の無い人間が始めたため、周りからは本当にやる気があるのかと思われていました」(齋藤氏)
今では笑顔で事業を始めた時のことを語ってくれたが、家業でもない、大学時代は理系、就職先は通信系IT企業というキャリアを歩んで来た齋藤氏に対して向けられる地元の方々の反応はとても冷ややかな状態だった。
和紙とギルディング技法の修行期間は約2年。日本全国の和紙産地に存在しない新たな和紙を創り上げるため、地元の老舗製紙所「天神産紙」にて和紙の製造技術を学び、内子町に滞在したガボー氏からギルディング技法を学んだ。
新たな“ギルディング和紙”の開発の過程では、様々な困難に直面した。特に従来のギルディング技法では額装の木材に定着させていた金属箔を、植物繊維で作られる和紙に安定して定着させるための糊の開発に多くの時間を費やした。忍耐強くひとつひとつの課題を解決し続けることにより、安定して和紙にギルディング技法を施せる唯一無二の“糊”を完成させ、“ギルディング和紙”という新たなジャンルを確立することができた。
その後、国内・海外の展示会に齋藤氏自ら積極的に出展することにより、世界中の和紙を取り扱う企業に“ギルディング和紙”という新たなジャンルを認知してもらえるようになった。今では、その積極的なPR活動が実を結び、国内の様々なメディアにも取り上げられる程の注目を浴びるような存在になった。
それでもなお、国内の和紙産業全体の課題が解決され、未来が明るくなったわけではない。
「新型コロナウイルスの影響で店頭販売の売上が減少し、また予定されていた販促会などができず、今後の事業継続に必要なお金に関して心配している」(齋藤氏)
「前職のIT企業は給料も良く、福利厚生もしっかりあった。仕事のストレスはありましたが、公務員のように安定した職場環境にいたため、それも一つの人生かなと思ったりもします。だけど、こんな感じでインタビューに来て頂けたりすることは、前の職場では考えられなかったので、素敵なお仕事をやらせてもらっていると感じています」(齋藤氏)と楽しげに語ってくれた。
葛藤とワクワクを抱えながら新たな職人としての人生を歩む齋藤氏は、“ギルディング和紙”を作り出すことで低迷していた和紙産業に再度注目を集めるきっかけを生み出した。
手漉きの和紙を製造するために、自然の原材料はなくてはならないものだ。「五十崎社中」で作られる“大洲和紙”は、楮(こうぞ)・三椏(みつまた)・雁皮(がんぴ)・麻・わら・トロロアオイを主な原材料として製造されている。そんな自然が生み出す原材料のうち、最も和紙製造において大事な自然の原材料は「水」だという。
「やはり水が一番重要で、和紙の産地は水(地下水)が綺麗で豊富なことが必須条件です。当然に、製造工程から出てしまう排水は濾過してから川に流しています」(齋藤氏)
和紙作りのために、一番大事な水は先人から代々守られてきた“大洲和紙”産地。しかしながら、今は昔のように産地の中で楮(こうぞ)等の主な原材料を栽培するという文化が無くなってしまった。「昔は農家の方が、冬の間、農作業ができない時期に和紙を作ったり、和紙の原料を栽培したりとか、そういう文化があったんですよ。今は、それをやっている人は内子町にほぼいないですね」(齋藤氏)
齋藤氏は、工房内の雇用を少しずつ増やしながら、昔ながらの産地の中で主な原材料である楮(こうぞ)等を栽培できるように努め、持続可能な和紙産地を実現させることで内子町に貢献したいと考えているそうだ。
齋藤氏は前述したように職人の道を志す迄は、通信系IT企業のサラリーマンとして生きてきた。安定したキャリアと暮らしを捨てて、伝統工芸に関しての知識もまったくないまま飛び込んだ“大洲和紙”の世界。今も葛藤を抱えながらも、日本の伝統工芸と共に生きていくことを続けている。そんなお話を聴きながら、元サラリーマンというキャリアをもつ齋藤氏ならではの視点から、日本の伝統文化に魅了されていく姿が見えた。
「僕も、10代の頃は伝統工芸に興味がなかった、今も伝統工芸というよりは工房で働いている職人たちが素敵なので、そっちには興味がありますね」(齋藤氏)
和紙職人と関わることにより気付けたものづくりの魅力。元サラリーマンという背景があったからこそ、和紙を知らない人達に和紙と直接触れられる機会を提供し、和紙の魅力に気付いてもらえるよう奮闘している。
「今時、障子紙を使っている家はほぼ無いので、やはり和紙に触れる機会がなくなっていると思います。まず和紙を知ってもらいたい。どうやって和紙を作るかもあんまり分からないですしね。かっこいいね、と思われる伝統工芸を広めていきたいです。是非、愛媛に来てください!」(齋藤氏)
“大洲和紙”、“ギルディング和紙”の技術を直接肌で感じたいと思ったアナタへ。
CRAFT LETTERでは、愛媛・“大洲和紙”の産地にある工房で、あなたのためだけの時間を「五十崎社中」の職人さんに作ってもらうことができます。
その考え方、技法に触れ、ただ直接話すもよし、オリジナルの商品を相談することも可能な職人さんに出逢う旅にでてみませんか?
まずは、以下フォームよりお気軽にご相談・お問合せください。
内子町は、人口約1万5,000人の愛媛県の中心部松山から約40㎞の立地にあり周囲を山に囲まれた町です。内子町は江戸時代後期から明治時代にかけて木蝋(もくろう)の生産によって栄えた町でもあり、今も建物が残っておりその時代の色を濃く残しています。この内子町でつくられている大洲和紙の歴史は、正倉院文書に出てくるほど古く、昔から質の高い半紙や障子紙などが生産されていました。和紙自体の質はとても高く評価されていたとのことで、江戸時代に大洲藩の主要な産業として繁栄し、明治時代にはいると小田川沿いにたくさんの工場が並ぶようになったとのことです。現在はその工場はすっかりと姿を消していますが、その面影は小田川沿に見られます。大洲和紙の原材料は主に”コウゾ”、”トロロアオイ”という植物です。この植物とともに1,000年以上の時代を巡ってきた和紙の産地を、内子町に残る自然の香りとともに現在も感じられます。(CRAFT LETTER編集長:岡本幸樹)